確かに刻まれる
鎚の音は、
未来へ、そして世界へと
響き渡る。
七百年の時を超えて、
受け継がれてきた伝統の技。
親方から子方へ...
越前打刃物
‐700年のあゆみ‐
およそ700年の昔、京都の刀匠「千代鶴国安」が名剣を鍛える水を求めての旅の途中、この地に留まり刀剣をつくる傍ら、近隣の農民のために、鎌も製作するようになったのが起源とされています。それ以来、武生(現・越前市)は農業用刃物の一大産地となり、それらは北陸独特の「行商」という形で販売されていきました。
◆漆かき職人と越前打刃物
福井県の伝統産業の1つとして有名なものに、「越前漆器」があります。この越前漆器に使われる漆を求めて全国を行脚する「漆かき職人」と呼ばれる職人たちが、実は、越前打刃物の販路拡大に大きく貢献していたのです。彼ら自身が、漆を採取するために武生の鎌を大いに利用、また旅の資金調達のため打刃物類を売り回り、さらには各土地柄に応じた鎌の注文を持ち帰ってくる、という流れができ、「越前鎌」が全国に広まっていったのです。
◆越前打刃物の繁栄と衰退
越前打刃物、特に「越前鎌」が全国第一位の生産量を挙げるようになったのは、江戸時代の中頃から明治時代まで続いたと言われています。一説には、明治7年当時の全国鎌生産量が約353万丁で、そのうちの27.5%に当たる97万丁が越前で生産されていたようです。第2位の新潟県が25万丁であったことからも、越前打刃物が全国に広まっていたことが分かります。
◆激動の時代
昭和初期は、菜切包丁や稲刈鎌の需要もあり、比較的平穏な道を歩んできました。昭和54年には、越前打刃物は打刃物業界では初めて、「伝統的工芸品」として国の指定を受けました。指定されたのは、鉄製の包丁、鎌、ナタ及び刈り込み鋏で、歴史が古く史料も多く保存されている事、700年の長期間にわたって優れた製品を全国に供給し続けてきた事、が認められたのです。
しかし、高度経済成長により農業も機械化が進み、手作り鎌の需要は次第に低下していきました。越前に60社ほどあった鎌鍛冶屋のほとんどが廃業に追い込まれたと言われています。また、包丁業界においても、錆びにくいステンレス素材の流通、大量生産の安価な型抜き刃物の台頭が、越前打刃物を衰退させる一因となりました。刃物製作所の多くは家族経営の小さな工場で生産作業を行っており、やむなく廃業する所も少なくありませんでした。
その苦境を打開すべく立ち上がったのが、当時後継者として越前打刃物に従事していた、タケフナイフビレッジ創立の立役者である10名の職人でした。